数年前に購入した服、靴、本、、、何年たっても使い続けるものもあれば、そのときは繰り返し使っていたものでも、そのときが過ぎれば必要に感じなくなるものもあります。
先日結婚することになった友人が、彼とリングの購入に行った話を聞きました。
それまでは人のつけているものをそこまで気にして見ることはなかったけれど、いざ自身が購入するとなると目に付くようになると言っていました。
そんな風に、物事が自分事になったときにアンテナは張られるのだと思います。
私がそれをよく感じるシーンは、本を選ぶときです。
20代前半までは、仕事に関して思い悩むことも多く、哲学やメンタルに関わる本をたくさん読みました。
セミナーで話す前準備の時期は、セミナーに関わる内容の本やわかりやすく伝えるための表現の本などが目に映りやすくなります。
このコロナ禍で自粛している現状では、人を感じられるような小説やスポーツがテーマとされている小説を手にすることが増えました。
以前はよく読んでいた哲学やメンタル関連の書籍は、たまに手にとってはみるものの、今の自分にとっては当たり前に感じることが書かれていることが多く、あまり響かないものになりました。
セミナーの内容を構成する際は、普段から読んでいる専門書でも、よりわかりやすく伝えるためにどうするか考えることでいつも以上に深く読み込めると感じます。
活動の制限がある現在、当たり前に会って話したりスポーツをしていた友人や仲間たちとの時間は格段に減り、それを補うように関心が増したように思います。
昔、本屋でなぜか目に留まった本の表紙だけが記憶に残っていました。
その本は当時買うことなく棚に戻したものでしたが、それから6年後にまた別の場所で目にすることになりました。
記憶の片隅に残っていた映像となにか感じることがあったのでしょう。
6年越しに再会したその本を読み終える頃には、とても力をもらっていたように思います。
同じ本でも、そのときの自分にとって必要な状態かどうかで引かれる力は変わるのだと思います。
仮に、はじめて出会ったとき読んでいたとしたら、今日までこの本について覚えていなかったかもしれません。
私はわりと感覚型のところがあるので、こういった「必要な気がする」という感覚に従って生きています。
興味・関心以外にも、そのとき必要なものはどこかほかのなにかとは違って見えるのではないでしょうか?
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